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"わたしの"言葉

YOGA

その"本質"そのものは、どこでやっても、どの言葉で語られても、変わらない。

 

ケロウナでヨガのスタジオへ通ってみて、それを実感することが出来た。

表現方法が異なるだけ。

 

…そう思う一方で、先生の教えを深く理解し更に伝えていくためには、言葉の壁を取り除かなければならないということも激しく痛感したのだった。

 

 

ヨガと聞いて多くの人が思い浮かべるのは、あの独特なポージングだと思う。

私も初めはそうだった。

でも、本来のヨガというのは"心の科学"だ。

一言で言い表すことなんて到底出来ないけれど、遠い遠い遥か昔から変わらない真実が、そこには詰まっている。

 

だから、それを心得ている先生からの教えの根底にあるものはみんな同じ。

先生によって、外の世界への出し方(=言葉での表現方法)が違うだけで、ヨガそのものは一つしかない。もちろん年齢も国籍も関係なく。

 

私はまだまだ入り口に近いところに居るということを自覚している。

でも、

日本でアーサナ(ポーズ)の練習をしていたし、

哲学について先生から教えてもらったり、

文献を読んで勉強したりもしているので、

ヨガについて多少は理解しているつもり。

 

英語でのレッスンも難しさを感じることなく、

当初は「結局、日本と同じだなぁ〜」という感覚だけが残った。

 

 

その後、何度かレッスンを受けるうちに

「"英語"という言語でレッスンを受けることは、今の自分にとってはちょうどいいかもしれない。」と思うようになった。

 

というのも、日本語だと分かりすぎてしまうから。

聞こうとしなくても、自然と先生の"言葉"が入ってきすぎてしまうから。

もちろん、アーサナの練習をするときはエゴが働くと怪我にも繋がるので、先生の指導が助けとなるし必要なものでもある。エゴは無意識下で発生するので。

でも"言葉"が入ってきすぎてしまうと、それが集中力を妨げたり心を乱したりすることがあったり、逆に、上っ面だけ舐めて分かった気になることもある。

 

英語でのレッスンだと、自然と"必要な時だけ聞こう"という姿勢になれる。

集中したい時や自分の世界に入りたい時に、入り込みやすい。

逆に、聞く姿勢を作る時は、先生の"言葉"をきちんと理解しようと試みるので、自分の中で新たな発見があったり、深いところへ行けたりする。

例えそれが先生の言わんとしていることでなかったとしても、それはそれで良いかなと。

 

そういった経験を踏まえて、、、

ある一定のヨガへの知識や理解が得られていれば、他言語でアーサナのレッスンを受けることはとても良いことだと感じた。

 

 

しかし最近、ある壁にぶち当たった。

 

それは、「誰かに伝えようとした時、日本語以外では伝えられない」ということ。

 

ヨガ=アーサナのイメージを持っているのは日本人だけではなくて、外国人も然りだ。

正直、外国人の友達に「教えてよ〜」と言われると、困ったなぁ…と思う。

いかに難しいポーズを取るか、柔軟性やバランス感覚・運動神経の類ばかりに目を向けているから、"1番大切なことはそこではないのだ"ということを伝える一歩を踏み出すことが出来ない。

 

「難しい」ではなくて、今の私には「出来ない」。

 

英語の中に"わたしの"言葉がないから。

 

日本語であっても言葉だけで伝えることは難しい。

おそらく不可能だと思う。

言葉を以ってして、それを受け取ってくれた人が、実践して体感として感じてくれた時に、初めて伝わったことになると思うから。

だけど、伝える一歩を踏み出すことは、出来る。

 

日本語の中には"わたしの"言葉があるから。

 

 

 

瞑想中にふとそんなことが思い浮かんで、

英語を自分のものにしなければ…と使命感が生まれたのでした。