暮らしを抱き締める。

人って、暮らしを犠牲にして何かを頑張るよね。

暮らしって、犠牲にしていいものなのかな。

私は犠牲にしたくないよ。

 

 

今日、久しぶりに暮らしを整えた。

自分の暮らしを犠牲にしないって決めていたのに、

それがちょっと崩れかけていたから。

徹底的に、暮らしとデートするような、そんな感じ。

 

東京には、仕事が忙しいことを理由に暮らしを犠牲にしている人がわんさか居た。

私もその渦の中に入って、本当に大切なことを見失った。

 

自然が豊かな場所で生きていれば、見失うことはないような気がしていた。

だけど、社会の中で生きている限り、

気をつけないと無意識のうちに犠牲にしてしまうことがあるのだ。

 

なんとなくモヤモヤしたり、

どうしたらいいか分からなくなったり、

正解を求めてしまったりするときは、

暮らしが乱れてる証。

 

それが整えば、自ずと進むべき道が見える。

 

だからね、みんなちゃんと整えればいいのにー。

って、私は思うんです。

 

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家からの景色。

海が見える。

空は広い。

人の暮らしを感じる。

気持ち、いい。とても。

 

 

暮らしを整えて見えたものを書き記しておこう。

なかなか人に伝わらなくて、自分がブレそうになったことがあったから

ちゃんと可視化させて心に刻んでおきたい。

 

過疎高齢化が進んでいる地域にある問題は、

大元を辿っていけばどんな問題でも必ず"人が足りない"に行き着く。

 

「誰かがやらないといけないんだから、誰もやらないなら自分がやらないと。」

責任感のある人は、そうやって自己犠牲を払って背追い込んでしまう。

 

「人が少ないんだから、気が合わない人とも協力しないと。」

優しい人は、そうやって本当の自分を隠して壊して我慢を溜め込んでしまう。

 

今までの時代の流れがそうだったから、

それが正しい考え方なのだろうという思い込み。

でも、現実を見てみたらどうだろう?

そんな時代が生んだ社会は、果たして完全に幸せだと言えるのか?

…私にはそうは見えない。

 

自分を犠牲にしてまでやらないといけないことなんて無い。

自己犠牲が伴う行為は、誰のことも幸せにしないから。

 

自分を偽ってまで付き合わないといけない人なんていない。

お互いの中に我慢が溜め込まれることは、まったくもって健全じゃないから。

 

私が大都会東京で気がついたその真理は、

人が足りない社会であろうとも、変わらない。

人が少ないことを理由にその真理をねじ曲げるから、

おかしなことになってしまうのだ。

 

幸いにも今は自分で選択ができる時代なのだから、

とことんまで自分がやりたいことをやって、

一緒にいたい人といればいい。

 

地域活性って、地域が幸せになることだもん。

幸せな場所には、幸せな人が集まってもっと幸せになるもん。

類は友を呼んで、幸せは幸せを呼ぶ。

間違ってない。

 

地域活性という言葉にしてしまうと少し違和感もあるけれど、
みんなが幸せになるための道のりは、
一見遠回りに見えることが、近道なのだと思う。